房総丘陵横断小径(こみち)の旅(Jan-2017)
「これ全部咲いてたんでしょうね。すごかったに違いない」
Uさんは残念そうだった。太陽が傾いて日の光はもう届かない陰、それでも空にはまだアンバランスなほどの青空が突き抜けるように広がった真冬の空のもと、一面の緑は花の落ちた水仙の葉がどこまでも続く畑だった。
散ることを忘れてしまったか、二度寝で遅刻にさえ気づいていないような散りそこねた水仙の花がところどころに残り、公園近くには水仙まつりののぼりが風に揺れている。しかしそれらが逆に、むしろ終わったことのきっちりとした区切りをつけられているようにさえ感じる。この冬の水仙はもうお終いだ。
でも僕は残念でも何でもなかった。今日走って来た道の素晴らしさがすべてだった。旬の草木は旅に彩りを添えるけれど、僕にとってそれは主題でなくてもいい。走る道とそれを包む全体の景色や風、空気で旅を作る。季節の花があればその全体に色を加えるけれど、ないから全体がだめだということじゃない。
「先週が最後だったんでしょうね、そのあと雪が降って終わりだったようです」
と水仙の情報を調べてきていたUさんが付け加えた。昨年かここで満開の水仙を見たのだそう。
「確かにすごかったでしょうね」と僕は答えた。「でも梅や菜の花が代わってもう咲き始めていたし、水仙がなくったってこんな道ばかり、千葉らしさが存分に味わえて今日はとても楽しいですよ。なんてったって、引いてもらったルートが素晴らしすぎる」
◆
安房鴨川まで千葉から2時間以上。普通列車でずっと窓外を眺めつつきた。一両四扉の車両は駅に着いてそれが開くたびに寒く、僕は凍えながらボックスシートの座面から伝わる暖房熱を少しでも吸収しようと懸命に小さくなっていた。窓際に置いたコーヒーの缶ボトルは冷蔵庫に入れたように冷たくなってしまったし、朝食用にと持ってきたおにぎりを寒さの気を紛らわせるために食べると、それもすぐになくなってしまった。
でも始発駅から終着駅までその列車に乗り続けるのは楽しいことだ。千葉駅まで出るために僕は1時間あまりを費やしてきたけれど、それでも飽きることはなかった。ただ寒いだけだ。雲が広がっているのだ。天気がよくなるだろうなんて楽観視もできないくらいグレーの重たい雲だった。列車が勝浦を出たあたりから、ようやく青空が広がり始めた。
(安房鴨川駅前の青空)
今日一緒に走るMさんから連絡が入った。乗っている列車が安全確認で遅れています──MさんはUさんと一緒に新宿から安房鴨川まで乗り換えなしで来られる特急に乗っていて、ふたりは僕が乗ってきた普通列車の20分後にここに着く。といっても何かをするほどの時間でもなく、遅れるにしたって10分15分の話だろう。そうだと思い、駅前の陽だまりで何をするでもなく過ごした。薄い青緑色と小豆色の日東バスが駅前を通り過ぎて行った。安房に来たのだなとそんなことで感じた。
◆
「嶺岡中央林道へ行こうと考えていまして」
とUさんは言った。週末天気がよくなったらどこか行きましょうか、千葉なんかいいですよねと僕が声をかけたらちょうど、Uさんも千葉を考えていた。
週の初め、土曜日には傘マークがついて降水確率が60%もあった。やがて雨マークは消え、降水確率も40%になり20%になった。金曜日になると翌日の予報からは雲マークさえ消えた。
僕はUさんにもらったコースプランをGPSマップに入れた。前半は嶺岡中央林道を行き、途中からそれて山里道を行く。大山千枚田を経由したり佐久間ダムをまわったり。佐久間ダムの周辺には水仙畑があるようだ。そして一緒に行くと言ったMさんにもUさんの計画してくれたこのルートを転送した。
嶺岡中央林道は1号から4号まであるうち2号だけ走る。僕は4、5年前に全線を走ったことがあった。並行する長狭街道で内房外房間を走ったこともあるし、周辺一帯もひととおり網羅したつもりになっていた。けれど、佐久間ダムやをくづれ水仙郷など知らない場所だった。──知らないところなんてたくさんあるのだ。
天気の好転に合わせて計画を進めた。都内からのUさんとMさんは特急新宿わかしおで一緒に来ると連絡が入つた。
(本日のルート)
◆
「まずは海へ向かいましょう」
Uさんはそういうと、安房鴨川の駅からまっすぐ、駅前通りを進んだ。1分もしないうちに道は海岸に突き当たった。
「気持ちいい」
Mさんが背伸びをしながら深呼吸をして、それから海の写真を撮り始めた。僕らも同じように写真を撮る。太陽がまぶしく降り注ぎ始めていた。
「今日は坂なんですよね」
とUさんが言う。
「そうですねえ、記憶ではそんな感じです」
僕もうろ覚えだった。何せもうずいぶん前のことだから。UさんもMさんも嶺岡中央林道を走ったことはないそう。
「ナガヤマさんのブログ見たらそう書いてありました」
Uさんは情報収集しようと検索しているとよく、僕のブログにあたるのだという。僕も同様、行きたい場所を探しているとUさんのブログに当たる。この話題になるたび、指向が似ているんだよとMさんが笑う。
川を、海に最も近い橋で渡った。多少肌寒いけどウィンドブレーカーを脱いで正解だったように思う。橋からきらきら光る海を見ているだけで気持ちがいい。
(安房鴨川駅から海に出る)
嶺岡中央林道は、鴨川から入ると2号から始まる。林道にアプローチする前に、魚見塚展望台に上ってみた。斜度のある坂で一気に丘へ駆け上がると、今ほんの数キロ走ってきただけの鴨川の街が小さく眼下に広がった。その景色の半分は大海原、太平洋だった。東は天津から小湊へと大きく湾曲する海岸線、南は太海へこちらも湾曲する海岸線。そして海はどこまでも遠い。「ハワイが見えるんじゃないですか?」「もちろん、こんなうす曇りじゃなければ」などと笑いながら壮大な風景のなかで冗談を言う。コトン、コトンと乾いた小気味いい音が刻まれるのが聞こえた。太海からやって来た内房線の普通列車が鉄橋を渡って安房鴨川の駅に入っていくところだった。まさに鉄道棋型のジオラマを見ているようだった。
(魚見塚展望台から見る鉄道模型的光景)
林道は、ゆるい屈曲を繰り返しながらも直線的に西へ向かう。道は舗装されていて、しかしながらよく知られている道でもあり、県外ナンバーの車ともすれ違ったりする。直線の上りと背中に降り注ぐ日差しで汗が出るほど。ウィンドブレーカーは脱いでおいて正解だった。
基本的には林のなか、木々に覆われているのだけど、ときおりそのすき間から周辺の景色が望める。全面的に眺望が広がる瞬間もある。驚くのは、海が見えないことだ。丘陵部の先に海のある風景もあるのだろうけど、目に留まるのは丘陵の山肌ばかり。谷底に集落が連なっているように見える。道もそこを通っているに違いない。見ている方角が判然としなくなっている。海が見えないからだ。頼りにするものがなく、道はひたすら西に向かうばかりなのに自分の方向感覚がおかしくなっているようだった。
途中眺望の開けたパラグライダーの滑空場で休憩にした。自転車を置いていき、飛び立つ先をのぞき込んでみた。僕は高所恐怖症なのでここを飛び足が地から離れると想像しただけですくむ。三人でのぞき込んでいるかたわらで、ひとりパラグライダーを背に飛び立とうと準備をする人がいるので場所をよけた。そしてしばらく見ていた。パラ(と呼べばいいのだろうか)はちょっとの風でも大きく向きを変える。何度か体制を作るものの飛び立たない。難しいのだろうなと思う。しかしそれよりも、これを飛んで下に着地したあと、ここまでどうやって戻ってくるのだろう。歩いて? それとも仲間の車など待機させておくのだろうか。歩くとするとこの大きなパラはどうするのだろう。そんなことを気にし始めたら止まらなくなってしまった。
(林道から一基の風力発電装置を望む。海が見えたのはここが最後)
(嶺岡中央林道の直線的坂道)
(ハラグライダーの滑空場)
飛び立つのを待たずに出発することにした。
「ここから左に行こうと思います」
確かにUさんが引いてくれたルートは嶺岡中央林道から左へそれている。その場には林道白滝坂本線と看板がある。倒れかけているけれど問題ないでしょうとUさん。「行きましょう、楽しそう」
そこはまさに千葉の山里道を絵にかいたような小径だった。舗装は痛んでいた。小砂利や折れた枯れ枝のうえに乗ると滑る。車は通らないかと思いきや意外にもすれ違う。嶺岡中央林道に並行していて、分岐箇所もY字になっているから、どちらが本線なのかわかりづらい。嶺岡中央林道だと勘違いしてそのまま走っている人だっているかもしれない。
僕らが走って来た道もまたいつの間にか嶺岡中央林道に戻っていた。走っていた全てが白滝坂木線だったのかどうかさえ判然としない。でも楽しい道だった。
嶺岡中央林道2号線は国道410号に合流して終わる。休憩がてら酪農のさとに立ち寄ったあと、今度は大山千枚田へ向かった。
国道410号で嶺岡山地を越えて北側に出て下った。途中、嶺岡中央林道1号線の分岐を見送った。これから先は嶺岡中央林道ではなく別の里道ルートを行く。小腹は空いていたのだけど、酪農のさとでは食事も見つけられず、Uさんがとりあえず大山千枚田へ向かいますかと言う。
◆
Uさんがチョイスした道は素晴らしい道だった。
嶺岡山地を下りながら、後ろに大型トラックを背負うことになりそうになった直前、進路を左に取って国道を離れた。いいタイミング。そこから逆川という川に沿って進む。この道がまた気持ちいい。田植えが終わり稲が伸び始めた時期に来れば心地よい風に吹かれるに違いない。逆川が長狭街道こと県道34号をくぐるところで僕らは一度長狭街道に入り、数百メートルで街道を離れた。
長狭の田園地帯のなかをゆく道はのどかないい風景だった。千葉の里道らしさが前面に出ている道だ。道は直線ではなく、細かな屈曲と分岐が多い。クネクネと進んだ先にあるY字路などどちらに行くべきか迷ってしまいそうだから、そのたびにGPSマップを細かく確認した。ゆるい坂を少しずつ上っていく道はやがて、だんだんと長狭街道から離れていく。そして嶺岡山地へ近づいていく。周りの田んぼはみな、坂に合わせて棚田になっている。まだ準備も始まっていない田んぼの片隅に、菜の花が全開で咲き誇っていた。数はまだ少ないけれどあの黄色のまぶしさが目に飛び込んできた。まだ一月だというのに。
農家の敷地や小さな辻(交差点というよりもあえて辻と呼びたくなる里道同士の交差だ)の角には梅があり、赤に白に、木によってはずいぶん咲き始めていた。
(逆川沿いの道)
(長狭田んぼのなかの里道)
(菜の花が咲き、梅が咲く)
小径はどこまでも上り続けている。長狭の田んぼのなかを抜けていたかと思ったらやがて林のなかに入っていた。勾配もきつくなった。ゆっくりゆっくり進む。木々にさえぎられて日が当たらないから肌寒い。舗装された道のうえに落ち葉や枯れ枝が脇とまん中に蹴散らされているから車は若干通るのだろう。とはいえ交通量が多くなれば落ち葉枯れ枝は路面から飛ばされてなくなってしまうから、数えるほどなのだろう。轍の幅はおそらく軽トラ。地元農作業の人の通行が中心の道だろうか。
道は嶺岡山地の北の山肌を上っている──。どこまで行くのだろう。最も高い山稜部をトレースしているのが嶺岡中央林道、そこまで近づくのか。
途中、大きな地図の看板を見つけたので立ち止まった。里山ウォーキング細野元名コースと書かれている。なるほど確かに歩いても、自転車でも、バイクでも楽しい道に違いない。実に気持ちがいい。
◆
「稲が伸びたとき、緑のじゅうたんを見てみたいですね」
そう僕が言うと、
「田植えの直前、水を張ったときも一面、鏡のようでいいですよ」
とUさんが言った。なるほど、確かに。
大山千枚田。
来たことがあるような気もする。初めての気もする。この周辺は嶺岡中央林道のほか、縦筋の国道県道も行き来している。大山千枚田の名も知っているしこの場所を意識してコースを組んだこともある。でもここにあえて立ち寄ったかどうか、記憶が交錯して思い出せない。
それは僕個人のどうでもいい話。これだけの広い棚田を前に必要のないことだ。
「あの向かいの山肌に見える道、走って来た道ですね」
と僕は指を差した。ああそうですねとUさんは言い、あんな高いところを通っていたんだとMさんが言う。確かに眺望は広がらなかったから、その高さに気づかなかった。
「せっかく上っても、眺望が開けるところがないので残念ですね」
と言うと、
「とんでもない。むしろこういうほうがいいです。木々に包まれている感じがいい。景色なんてちょっと見えればいい。一度見えれば。あとは木々にうっそうと包まれた道がずっと続くほうが好き」
そう、Mさんが言った。
へえ、そんなものかな、と僕は思った。でもいろいろな考え方やいろいろな道の好みがあっていい、しばらくしてそう思えた。だって僕の道の好みだって人からすればそれはそれは特殊な感性に違いないのだから。むしろ僕のほうが変わっていることだってじゅうぶんにある。
(長狭田んぼのなかの里道をゆく)
(里山ウォーキング細野元名コース)
(大山千枚田へ)
(棚田カフェ)
さあ食事しましよう──酪農のさとで食事を見つけられなかった僕らは、ここまで店に出合うこともなかったから、まよわず食事を選択した。大山千枚田すぐそばの棚田カフェ。古民家の一角に建て増しをした場所は、最小限のテーブルとイスがあるだけの簡易食堂のような感じ。香川に多い讃岐うどん店に似ているとも言える。窓から差し込む日差しがやわらかかった。
僕は米めんなるものを頼んだ。温かい汁物が食べたかったのかもしれない。肉みそで味付られたこれは、地元野菜も載っている。さらにおにぎりをひとつ。
「お米は全部長狭米だから」
店の女性はそう言った。
どれどれ、長狭米のおにぎりを食べてみよう。
(棚田カフェ・ごんべえ)
今日のUさんのルートチョイスは本当に素晴らしい。どこまでも里をトレースし続ける。感心を越えて感動的ですらあった。
棚田の続く風景、どこからか煙が上がっている。民家は点在し、道はそんななかをうねうねと小さく屈曲しながら進んでいく。軽トラとすれ違い、犬の散歩とすれ違う。まるでアニメの世界のようじゃないか。ドラマや映画、実写でも最近じゃここまでの風景を見ることなんてない。
Uさんが先で止まっている。僕が道に風景に感動して何度も立ち止まって写真を撮っているものだから、そのたびに待ってもらってしまう。立ち止まったUさんが、「あれ、みんな水仙ですよね」と言う。
道路のまわりは色濃い緑の葉で覆われていた。なるほど水仙、確かに散ることを忘れた花がいくつか残っている。
「少しの差だったんですね。本当に惜しかった」
とUさんは言った。
それからしばらく、道の周囲は水仙ばかりになった。この辺がをくずれ水仙郷か。
急な坂を下る途中、大きなダム湖が目に飛び込んできた。これが佐久間ダム。ここには来たことがない。僕も房総半島にまだまだ空白地帯を持っているのだ。
湖岸へ出て、斜面一面が水仙であることに気づいた。これはずいぶんと大がかりだ。もともとこういう土地なのか観光の一環で水仙を整備したのか知らないのだけど、かなりの範囲が水仙で覆われている。
ぐるりとダム湖を半周し、ダムの築堤まで行ってみた。
黒部ダムのような大きなコンクリートと大放水の図を思い浮かベちゃいけない。そういうダムじゃないのだ。
ダムの下には、これまでと変わらない長狭の田んぼと農家がまた、延々広がっていた。
(続く里道)
(佐久間湖、佐久間ダム)
ダム湖の駐車場にはこの辺一帯の散策地図があった。まさに水仙のための散策地図、やっぱり水仙は一大イベントなんだ。
その地図のなか、左上に保田の駅がある。この目の前の道をそのまま行くと安房勝山の駅だ。しかしながら今日のUさんのルートは水仙ロードを通り保田駅がゴール。そこへ向かう途中、見返り峠と書かれている。
「もうひと山、越えるんですね」
と僕が言うと、
「なんだかそうみたいですねえ」
とUさんが言った。
じっさいその道に進んでみると驚くような道があらわれた。道の入り口から壁のようにそそり立った坂。下手すると20%くらいあるんじゃないだろうか。こんな場所にこんな恐ろしい坂が潜んでいたとは。
もうここは人のことなど気にしていられない。三人三様自分のペースで自由に進む。
僕は押すことが苦手で上手く上っていけないので、押して上っていくふたりを見送り、下で身体を休ませて息を整え、平らな部分で勢いをつけてから坂にひと息に入る。そんなことをしてもすぐに失速するから、あとは歩くよりも遅いくらいの速度でバランスを崩さないようにただただ立ち漕ぎをしていく。
悲鳴を上げたくなる。そんなところでも周囲に目をやれば、やはり一面水仙だった。そういえば水仙ロードって名前が付けられていた。
水仙は、保田に着く直前まで続いた。
(最後の峠道もやはり山里道)
上空を館山自動車道が横断している。その向こうに海があらわれた。思い出してみれば今朝、外房の海をスタートして、嶺岡中央林道に入るとすぐに海は見えなくなった。それから一日じゅう、林道から田んぼや林のなかの山里道ばかりをつないで内房の海まで抜ける素晴らしいコースだった。
内房線の踏切を渡る。そして国道127号に突き当たった。
「信号待ち、ずいぶん久しぶりですね」
とUさんが言った。
──待てよ? 安房鴨川駅前の信号を過ぎてから、今日は一度も信号を越えていないんじゃないか?
絶対にそうに違いない。でも百パーセントの自信がなかったから言わなかった。
Uさんはそして、最後に僕らを保田の海岸に案内してくれた。
0コメント