国鉄日中線に沿って(Aug-2017)
童話の世界と見まごうほど、あざやかな黄緑色の芝生のなかに熱塩駅が建っている風景があった。残っていた、という言いかたじゃ不自然なほど、今も列車を待っているように建っていた。駅はまだ営業しているように映るほど。
「ヒマワリの花壇の向こうに清水が湧いてるんですよ。冷たくて美味しいからぜひ行ってらして」
駅を守っている婦人が僕にそう言った。
僕はありがとうございますと言って自転車にボトルを取りに行き、それを手に、かつては線路があった芝生の上を歩いて行った。
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(今日のルート)
(GPSログ)
喜多方の駅がこれだけきれいなのは、磐越西線が観光路線として成立していて、そのなかでも代表的な観光の街だからだと思う。SLばんえつ物語が止り、降り立てばラーメンと蔵の街として名高い。駅前通りといくつかの主たる通りは電柱を埋めて景観も配慮されている。車道も歩道も美しいうえにきれいにしてあり、ゴミも落ちていない。
僕はこの街に何度か来ているし、来ればこの駅前にも立ち寄っている。まるで表敬訪問みたいだ。そうは言っても会津のローカル線、立ち寄ったからって列車の発着が見られるかというとそうはいかない。本数が限られているから、鉄道で来たとき以外は残念ながら列車にお目にかかったことはない。
その駅のはずれ、ロータリーにいちばん近いところに柵に閉ざされ泥土をかぶったプラットホームが存在していた。僕はこの場所にも足を運んでいるし、目にしているはずなのに、意識がなかったからなのだろう。そのプラットホームを気にも留めなかった。
列車の発着することのないプラットホームには白い、むかしながらの鳥居型の駅名標がひとつだけ立っていた。「きたかた」と中央に書かれ、左には「しおかわ」とある。右には「あいづむらまつ」と書かれていた。
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僕は旅客にせよ貨物にせよ、現役で日常ダイヤに就いていた蒸気機関車を見たことがない。最後の蒸気機関車がなくなるニュースをテレビか新聞で見た記憶があるからおそらく時代の「きわ」にはいたんだと思う。蒸気機関車はいなくなり、そののち大井川鉄道やSLやまぐち号で復活した観光用蒸気機関車を目で見ることになる。
もうひとつ、貨客混合列車というものも見たことがない。幹線ならともかく、ローカル線ではわりと日常的に走っていたという貨車と客車を混結した編成だ。せいぜい僕が知るのは東海道線や横須賀線の先頭に荷物電車や郵便電車が連結されていたことくらいだ。
日中線は国鉄の廃線対象として挙がり、JRまで生き延びることはなかった。磐越西線から支線としてわずか4駅。貨客の混合列車が走っていたこともあったらしいが、最後は朝夕に旅客列車が走るのみ。日中線が日中に走ることはない、などと言われていたことだけが記憶に残っている。
野岩羽鉄道構想というのがあったそうだ。
日光線の今市から鬼怒川、会津田島、会津若松を経てここ喜多方から山形県の米沢につながる路線。現在の国道121号にほぼ等しい。
ここ喜多方までは東武鬼怒川線、野岩鉄道会津鬼怒川線、会津鉄道とJRの只見線、磐越西線をつなぐことで実現されている。じっさい、東武鉄道の特急で浅草から一直線、鬼怒川温泉までやってくると、日によってはそこから一度の乗り換えで喜多方までの直通列車に乗り継ぐことができる。
日中線が野岩羽鉄道構想どおりに実現できていたなら、磐越西線じゃなくきっとこちらが本線だったに違いない。
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喜多方駅を出てすぐ、僕は日中線の分岐するカーブに立った。
本線から支線が分岐するときの、たいていよくあるカーブは緩やかで、鉄道路線であったことを印象付ける。線路跡は、「しだれ桜散歩道」という名の歩行者自転車道になっていた。
日中線の旅の入り口だ。
確かに鉄道線路らしい緩やかなカーブではあるけれど、曲線半径としてはきつい部類に思えた。車輪をきしませながらゆっくり北に進路を変えていたに違いない。
歩行者自転車道はときに砂利道になってときにブロック詰め路面になって、自転車には決して走りやすい道じゃなかった。それにしだれ桜が上から覆いかぶさって、姿勢を低めても枝がヘルメットに当たっていく。これは歩く人にも歩きにくいんじゃないだろうか。歩いている人にだってすれ違わない。
しばらく行くと踏切の警報機とC11型蒸気機関車と豆型のディーゼル機関車が保存されていた。日中線を走っていた機関車たちだろうか、たぶんそうなんだろう。ボロボロではないけれどそこかしこにクモの巣が張っていた。
引き続き桜の枝をかわしながら進んだ。そろそろひとつ目の駅、会津村松のはずだった。喜多方駅にあった駅名標の駅だ。しかしどこだかはわからない。ここだろうか、ここだろうかと何度かカメラのシャッターを切る。線路は緩やかに左にカーブした。
▼ 日中線の起点、喜多方駅
▼ 日中線のホームが現存していた。今まで気づかなかった
▼ 分岐の入り口、しだれ桜散歩道
▼ 歩行者自転車道の途中に現れた踏切と機関車
▼ DLはジャパニーズっぽくないが、新潟鉄工所の銘板だった
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歩行者自転車道はおよそ3キロで終わた。
引き続き線路をトレースする道はある。自転車にはかえってふつうの道のほうが走りやすい。景色も開けた。意外と住宅街なんだ……。喜多方からひと駅、生活の街がある。
右手奥には磐梯山があるはずだけど、雲に覆われて見えなかった。また道が荒れた砂利道になる。なかなかよそ見などしてられない。
道は県道に吸収され、きれいな舗装路となって左に緩やかにカーブする。そして押切川を渡った。この川を渡ると上三宮駅があった。また、だいたいこの辺かなって思うのだろう。広い県道だけど交通量は多くない。先に信号が見えるけど、赤信号を待っている車もない。そんな道。ふとそこに鳥居型の駅名標が目に飛び込んできた。
かみさんみや──。その右にあいづむらまつ、左にあいづかのう。
きわめて白くて文字の黒も鮮やかだ。とうてい廃止されて三十余年を経たものとは思えない。誰かが立てたのか? それすらわからない。しかしここに上三宮駅があり、日中線があったことを歴史にとどめようとしているのだ。誰かが。
交差点の信号が青に変わり、僕は上三宮駅を発車した。県道は緑の水田のなかの道になった。そして山が迫ってくる。ちょうど押切川を渡ったところで風景が一変した感じだ。住宅街は川を越えなかった。
稲の葉に埋まりそうな道を日中線は行く。立派な稲の葉身は風にゆっくり揺れ、それはやわらかな刷毛を指で撫でているよう。そのなかを日中線の客車列車に乗った僕が行く。線型からしてもスピードはそれほど出せなかったに違いない。旧型客車は扉も開けたまま、稲の上を流れる風と一緒にゆっくり北上していったのだろう。
長めの直線の途中、会津加納駅に着く。
道路脇に路盤と線路、踏切の道路標識が置かれていた。日中線で使われていたものに違いない。路盤ごとそのものなのか、線路を移してきたのかはわからないけれど、日中線の記憶をここにもとどめようとしている。
おそらくこのあたり、会津加納駅だと思われた。
▼ 上三宮駅の駅名標
▼ 押切川を渡ってからの水田のなかのルート
▼ 会津加納駅近くに残されている路盤と線路、踏切の標識
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日中線は磐越西線の喜多方からわずか10キロ余りの路線で4駅、終点の熱塩もすぐだった。熱塩駅は保存され、日中線資料館として維持されている。集落のはずれにぽつねんと存在する駅舎はヨーロッパの平原に建った納屋のようだ。ときどき車で人が訪れては駅舎や周辺の写真を撮っていく。僕も自転車を置き周囲を歩いてみた。
はずれにラッセル車と旧型客車が保存されている。屋根のもとで保存されているからか朽ち果てた感じはない。旧型客車の扉にはステップが付けられていて、車内に入れるようになっていた。早速入ってみる。こんなに狭かったっけ──? 首都圏でこの手の車両が走っていたのは僕が小学生のころまで。高校生のころ、山陰を鉄道でめぐっていたときに乗ったのが最後か。記憶が子供のころのせいだからか、それとも今の列車のボックスシートが広くなったのだろうか。ひとつのボックスを選んで座った僕はひどく窮屈に感じた。窓を開けると心地いい風が舞い込んでくる。
清水でボトルを満たした僕は、管理の婦人に礼を言い自転車に戻った。すると婦人は追いかけてきて、小冊子を持って行ってくれという。見るとサイクリング用の地図が裏表に大きく印刷され、いくつかの見どころが掲載されていた。
「自転車で走る方も多くなって、普及を進めている方が中心になって作ってるんです。トレーニングでこのあたりを走る方も多いようですね」
僕はあらためて礼を言い、小冊子をポケットに入れた。
もうひと駅ぶん、僕の日中線の旅は続く。
▼ 童話の世界のように建っている熱塩駅舎
▼ きれいに、整備も行きとどいて保存されている駅は現役のよう
▼ 駅のはずれにある清水
▼ はずれに保存されたラッセルと旧型客車
▼ 旧客の車内に入ってみた
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行き当たった先はダムだった。巨大な石積みのダムがまるで大きな車止めのようにさえ思えた。ダムは日中ダムという。
日中線は当初、熱塩の先の日中温泉を目指していた。しかしそれはかなわず、当初開業した熱塩までの路線で営業したまま、廃止された。日中線の名すら実現できないままだ。その温泉も小さな集落の一角にあり、どこにあるのかさえよくわからないくらいだった。野岩羽鉄道構想の代替として交通基盤を担っている国道121号はバイパスになってこの集落はもう経由していない。
僕はダムへ向かう坂道を上ってみた。
大きなダムのわりに、ここを訪れている人は少ない。乗用車が一台とオートバイが一台。僕のほかにはそれだけだ。築堤の上を通ることができるようなので真ん中まで行ってみた。見下ろすと日中の集落だけど、集落がどれほどなのかよくわからなかった。温泉宿がどれなのか、見つけることができなかった。木々が茂り、集落が緑に覆われているのか家も建物も目につかない。もうここには町はないのだと言われれば迷わず首肯するに違いない。ダムだけがやけに大きくて、ほかの何もかもがちっぽけに感じた。僕はその風景のなか、日中線の敷設されるであろう線路基盤と、終着日中駅のある場所を、頭のなかで描いて重ねてみた。
▼ かなわなかった日中へ向かう路線風景
▼ まるで行く手のすべてをはばむような大きな石積みのダム
▼ ダムの上からのぞく日中の集落
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