花巻・遠野(Sep-017)
宮沢賢治に傾倒したことがあったわけでもなかった。だいたいイーハトーブって言葉が賢治によって作られたものと知ったのがわりと最近で、この岩手の内陸地域で主に観光目的で使っている、何らかの意味のある言葉なのだろうと勝手に思い込んでいたし、その意味も知らず、とくべつな興味もなかった。
そんなことも知らずに賢治作品をいくつか手にした数年前、岩手をエスペラント語調に言いまわしたその言葉を知る前に、モーリオ市だとかセンダート市といった言葉に触れ、追ってイーハトーヴォ海岸地方なんて記述が出てくるものだから調べてみようと思った由。なるほど。今まで知らずに、こんな年になってはじめて知るとは。
そんな賢治がイギリス海岸という作品で書いたその名の場所は花巻市内の北上川河岸だった。そして僕はその場所に立った。
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(本日のルート)
いよいよ台風18号が近づこうという朝は、鉛色の空と涼しい、というか肌寒い朝だった。花巻駅近くの大きな駐車場に車を入れ、一度花巻駅前をひとまわりした。
まずは駅西側の公園にある花巻電鉄の保存車両を見に行った。花巻電鉄はかつてここから西の鉛温泉までを結んでいたナローゲージの鉄道で、そのうちの馬づら電車と呼ばれる車両が残されていた。車両と一緒にかなり詳細な説明板まで用意されていた。その写真と説明によると、ロングシートの車内はせまく、椅子に座った乗客どうしの膝が当たってしまうほどとあった。クロスシートじゃない。ロングシートだ。馬づら電車のなかを見ることはできないからじっさいどのくらいの狭さなのかを肌で知ることはできなかったけど。
それから賢治の生家の前を通り、北上川河川敷に出た。
寥寥とした河川敷に人影はまばらで、水量が多く流れも速い川は景色を重々しくさせていた。どこがイギリスを彷彿とさせるのかがよくわからない。露出した「青白い凝灰質の泥岩」というのも見つけられない。近くにイギリス海岸に関する説明板があったので読みに行ってみると、白亜の海岸を連想させる泥岩層が露出するのは北上川の水位が下がった時期のみだということがわかった。そして現代はダムなどによる治水が進んで、露出するほど水位が下がる機会はほとんどないこともわかった。
僕はなあんだと言いそこを出発した。
▼ 本日の起点、花巻駅には賢治がいる
▼ 花巻電鉄の車両は公園の一角に、でも状態良く保存されている
▼ 賢治の生家も眺めておく
▼ イギリス海岸。ひと気も少なく水量も多く天気も悪いから、賢治の描写につながってこない
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北上山地を横切ってくる冷たい水の猿ヶ石川をさかのぼり、遠野を目指す。
そのルートのもうひとつの期待はJR釜石線にもあった。
猿ヶ石川に沿って遠野を経て、北上山地を越えて三陸海岸の釜石までつなぐ鉄道も魅力的。これに沿って走るサイクリングはきっと楽しい。
そこで遠野まで行き、釜石線で輪行して戻ってこようと考えたのが今日のルートだった。
ただ途中の土沢までは猿ヶ石川と釜石線は離れている。どちらを取ろうか考えたとき、見るかどうかは別にしてとりあえず宮沢賢治記念館に行ってみて、そこから出やすそうな釜石線沿いを行くことにした。
「すんごい坂だ、頑張ってな」
宮沢賢治記念館の近く、イーハトーブ館の駐車場に入り、記念館を探していると駐車場を整理しているおじさんがもう一本上の道を入って行くのだと教えてくれた。ここに置いて歩いていくこともできるけど、と言われたけど、どれくらいかかるんですかと聞くとわかんねえな歩いたことなんかねえからと笑って答え、それはしょうがない答えだ自転車で行くしかないなと思い、道を詳しく聞いたところそう言われたのだ。
じっさいものすごい坂だった10%か、さらに越えているように感じた。ただただ立ち漕ぎで、1キロ近くあるんじゃないかというその道を進んでいった。やっと駐車場に着いたときは腰が抜けそうだった。
「これで? 上ってきたの? 下から? ──はあぁ」
とこちらの駐車場のおじさんに言われた。自転車はその辺に置いといてと。僕は宮沢賢治記念館に入るかどうか決めあぐねていると、いいとこだから見て行きなと言われ、じゃあそうしようかと入ることにした。
記念館のほかにみやげ物店とレストランがある。レストランは注文の多い料理店に登場した山猫軒の名で、しかしながら誰しも喜んで入っていき、身ぐるみはがされ食べられてしまうようなことはなく、みな満足げに出てくるふつうのレストランのようだった。
▼ 宮沢賢治記念館
思いのほか宮沢賢治記念館で時間を費やしてしまった。
少し急ぎ足に県道286号へ下り、釜石線に沿って進んだ。新幹線との接続駅新花巻駅前のロータリーにもまた、山猫軒があった。この名前にみなあやかりたいのかな。新花巻の駅は、地方の新幹線だけの駅にあるような、ロータリーのまわりだけ建物が密集し、それ以外の場所は野ッ原というような典型的な駅だった。ここの場合釜石線が交差していたものだから、取ってつけたような片面一線のホームが路線途上に設けられた駅が造られていて、連絡通路が僕の行く県道286号のうえを跨いでいた。この連絡通路は果たして新幹線の改札口に直結しているのか、あるいは新幹線駅前のロータリーに一度出されてしまうのか、ぱっと見よくわからなかった。新幹線に駅ができ、交差する在来線にも駅が造られるのはよくある例だけど、ここまで在来線の駅が浮いた存在なのはあまり見たことがない気がする。
県道286号と釜石線も、新花巻を過ぎればあっという間に田園風景になった。それも大半が水田に見えた。ふと僕は考える。岩手のお米ってなんだっけ? メジャーな独自ブランドがあったか、あるいは岩手でのコシヒカリやひとめぼれを作っているのだろうか、よくわからないけど独自ブランドの名前は頭に浮かんで来なかった。そして台風におびやかされそうな日でありながら、また青空が顔をのぞかせた。
僕は県道286号を少しだけ離れ、小高い丘へ垂直に上っていく道に入ることにした。地図で見た一本道は舗装路じゃなかった。ダートというレベルにも至っていない、ダブルトラックの畔道と言っていほどだった。ロードバイクでこういうところを走るのは難しい。楽しくないし自転車によくないという人もいるけど、僕は上っているうちに、その周囲の風景もあって、すこぶる楽しくなってしまい、バランスを崩したりよろけたり、すべって足をついたりしながらもまっすぐ、上って行った。
上った先には舗装路が快走していて、溶け込んだ風景もあいまって、その美しさにしばらく見惚れた。そしてその道沿い、丘の上に一軒ぽつんと建っているまるで欧州の童話にでも出てきそうな家が、パン屋なのだとわかった。
別に今日の行程を賢治にかぶれてみたわけじゃないのだけど、たまたまながらパン屋は「こなひきのゴーシュ」という名前だった。もちろんセロ弾きのゴーシュに掛けた店の名前であることはすぐにわかるけど、それよりもこんな場所にいきなりパン屋が現れることが地図で見つけて気になって、ルート上にメモしてきたのだ。店というよりは家で、看板もなく「GAUCHE」と書かれただけの見落としそうな立て札が一枚、オープンなガラスや扉はなく、店のようすなど家のなかに入ってみなければわからないような、むしろこちらが山猫軒なんじゃないのと思わせるところで、僕は重い木の扉を引いた。
「もうここにあるだけなんですけど、よろしいですか?」
パン屋は美人の若い奥さまが迎えてくれた。どこから来たかもよくわからないヨレた恰好の珍客に驚いていたかもしれない。さほど広くない店内ながら、テーブルが二本と窓際にカウンターテーブルが付けられている。
「こちらで食べられますか?」
と僕は聞く。
「はい、もちろん」
と彼女は笑顔で答える。
レジカウンターの脇のショウケースのなかは、確かに数えるだけのパンしかない。というものの休憩がてら入っただけだからひとつふたつのパンとコーヒーが飲めればいいと思ってたところ。
シナモンロールと塩パンとホットコーヒーをお願いしてひとつのテーブルについた。
しばらく待つあいだにお客さんが来て、応対に出た奥さまがまた「あるだけなんですけど、よろしいですか?」と聞く。来店者は残ったパンからいくつか見つくろって、買って帰って行った。
窓の外の、どこまでも広がっていく緑の景色を眺めながら待っていた。日がやわらかく差し込んで、休憩というよりくつろぎに来た場所に思えてきた。おかげでだんだんと気分がのんびりとしてしまう。こんな風景の場所が当たり前に存在し、日常に溶け込んでいる。もうひとつのテーブルで女の子がふたりでお絵かきをしている。ようすをながめているとどうやらここの娘さんとそのお友達のようだ。女の子のひとりは1分くらいおきに、定期的に僕の顔を見てはにこっと笑う。僕はそのたびに笑い返したり手を振り返したりした。
「残ったものなんですけど……」
と奥さまは僕が頼んでないパンも切って、皿に載せて出してきた。いいんですかと僕は恐縮し、礼を言い、いっぱいに満たされたコーヒーを口に運んだ。
「今日はずっと、自転車で?」
奥さまはそう言って手をクランク状にくるくる回して見せる。
「はい、花巻から走ってきました。遠野まで行ってみたいと思っているんですけど」
「そんなにぃ? 頑張ってください……」
ちょっと苦笑いが入っているがまあどこへ行ってもいつものことだ。
「遠野からは鉄道で戻りますし」
僕らの会話に女の子たちは要領も得ず笑っていた。小学生? と聞くと今5歳、来年から学校行くの、とまた笑って言った。
▼ 丘の上の一軒家パン屋、こなひきのゴーシュ
土沢に至るといよいよ猿ヶ石川が近づいてきた。猿ヶ石川と一緒に進む国道238号も現れ、県道はやがてこの国道に吸収された。
土沢の町はお祭りの準備に追われているようだった。そういえば昨日の盛岡市内でもそこかしこでハッピを着た人が歩いていたし、今朝の花巻市内でもお祭りの準備を見た。この時期、お祭りの季節なのかな。新興住宅街に住んでいるとそういうことに疎くなる。
今川焼やたこ焼きが食べられそうな松葉商店をメモしてきたのだけど、あいにく休業中の札を下げていた。こちらもお祭りの準備だからだろうか。でもよかった、いいあきらめがついた。すっかりパンでお腹がふくれてしまったから。
風が強くなってきた。いよいよ台風が来るのか。でもそれより気になったのは、気温がぐんぐん下がってきたこと。走っているだけで寒くなってきた。
僕は道ばたに自転車を止め、ウィンドブレーカーを着る。そしてまた走りだすのだけど、だんだんとペースが落ちてきているのがわかった。
道が上り基調になっているのもある。風が東寄りで、これが抵抗になっているのもある。でもどちらかというと寒くてからだの動きが悪くなっているように感じてきた。
雲行きも怪しくなってきた。降り出すかもしれない。
「──まずいな、時間」
釜石線はきわめて本数の少ない路線だ。おおよそ2時間に一本。僕は遠野を15時過ぎに出る盛岡行きの快速列車に照準を合わせていた。時間は13時をまわった。大きく時間を狂わせたのは宮沢賢治記念館とパン屋だ。前者は立ち寄るか立ち寄らないかくらいの考えだったし、後者は買い食いするくらいしか思っていなかった。さっき見た距離表示のある青看が遠野まで29キロを示していた。こういう場合の地名が表す場所はたいてい市役所のある場所だ。僕は市役所と遠野駅がどのくらい離れていているか、どちらが近いのかまったく調べてもいなかったから余計に不安に駆られた。列車の時間までちょうど2時間、もちろん輪行をするのだからぴったりに着くわけにもいかない。残り距離から見てほぼ平均20キロで走らなければいけない計算になる。上り基調、風、寒さ、そしてそもそもの僕のポテンシャルから見て、無理じゃね? って思い始めた。そして、釜石線の見どころのひとつ、めがね橋が現れた。
▼ お祭りの準備の土沢の町
▼ お水をいただいて
▼ 釜石線をまぢかに走る
▼ 宮守のめがね橋
ちょうど通りかかる列車をカメラに収めることができて満足したものの、それを待ったせいもあって13時半をまわった。とりあえず寒いから、何百メートルか先にある道の駅に立ち寄ることにした。
問題は、ターゲットにしている列車が快速列車だということだ。このまま遠野に向かって走って、時間切れになったらちょうど落ち合える駅で列車を待てばいいって考えたいところだけど快速の止る駅は遠野の次が鱒沢、その次がさっき通り過ぎた宮守だ。つまり鱒沢を過ぎたら遠野まで走り切らなくちゃならないということ。
じゃあ鱒沢まで行こうか。そう思って道の駅を出ようとしたところで、さらに暗くなった空を見て、鱒沢に何の意味があるんだろうと思い始めた。遠野まで行かないのなら鱒沢でも宮守でも違いはないんじゃないかな。億劫になってきたこともあるし、いっそ宮守から乗れば運賃も安いなんて思いはじめたらもう走る気力は失われた。もう一度道の駅のなかに戻り、南部せんべいと、あずきチョコ、きなこチョコなるお菓子をお土産に買い、フロントバッグとウィンドブレーカーの背のポケットに無理やりねじ込んで、宮守駅へ戻った。
何をすることもない駅だ。ホームがあって待合室がある。それだけ。無人駅はきっぷを買うこともできない。ゆっくり輪行のパッキングをしても列車の時間まで一時間半。周囲に食堂も喫茶店もなく、それどころか開いている店もないゆえ、待合室にいるほかなかった。壁に貼られたポスターを五度も六度も読み、それに飽きると誰も現れない待合室のベンチのひとつで目を閉じてみた。僕はいとも簡単に、そのまま居眠りに落ちた。
10分前にホームに上がると寒さが増していた。そう言えば20分くらい前に釜石行の列車が止ったはずだけど、気づかなかった。居眠りをしていたときだろうか。起きていたような気もする。ともかく僕は居眠りから覚め、ちょうど時間だとホームに上がった。
遠くで踏切の警報機が鳴り、レールの継ぎ目を刻む音が聞こえてきた。列車が来る。ホームにはほかに誰もいなかった。入ってきた3両編成のキハ110のドアボタンを押し、車内に入った。快速は銀河鉄道ではなかったし、乗客で満員だた。僕の居眠りは、ただの居眠りだった。
▼ めがね橋に列車あらわる(翌日だとSLの運転日だったらしい)
▼ めがね橋の上は緩やかな曲線
▼ 宮守の町。やっている店はない
▼ 宮守駅。ここから釜石線で花巻に戻る
◆
花巻駅に戻ると、ポツリポツリと雨が落ちていた。
自転車を車に積み込み、それからちょっとだけ花巻散策。賢治が通ったというそば屋、やぶ屋に行って賢治のように天ぷらそばを食べ、それからかつてのデパ食を復活させたマルカンデパート大食堂でオムカツとソフトクリームを食べた。すっかり満腹になった。
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