旧甲州街道、笹子峠 - 輪行旅 その2
(……その1から続く)
時間にして10分ないし15分。ここをわが物顔に占拠するように、道路のまん中に自転車を置いて好き勝手に写真を撮り、くつろぎ、セルフタイマーでそろって自分たちを記念に収めたりしていた。結局そのあいだ車が一台も通ることはなく、一台のオートバイも自転車も、そしてひとりたりとも人が現れなかった。
旧笹子峠、県道212号、笹子隧道。
冬枯れの峠は、いっさいの無音というサウンド・エフェクトと、動かぬ空気動かぬ風景、時間って止まることさえあるんじゃないかという感覚、そんな別次元別空間を用意して僕らを迎えていた。
(本日のルート)
(GPSログはこちら)
◆
「雪は問題ないですね」
僕らが心配していたのは前週に降った雪だった。それも11月では50何年振りという大雪で、国土交通省が提供してくれている道路の定点カメラの映像はハイシーズン中のスキー場へ向かうアクセス道路のようだった。でもそれは紛れもなく大月市内や北杜市内の国道20号の映像で、山岳路でも何でもなかった。
それがあって今回の行程を最初から心配していたのだけど、ここまで多くのアップダウンを繰り返しながら走ってきたなかで、道路脇の日陰のごく一部に雪だまりがある程度だった。どんな細い道でも道路は乾燥していた。一部通過した未舗装路に水たまりが残っていた程度だった。
「このまま笹子を目指しましょう」
大月駅前でおつけだんごを食べていた僕らの意見は一致した。
もともと今日はふたつのルートを用意していた。スタートした上野原からここ大月までは一本だったものの、大月から先はこのまま甲州街道で初狩、笹子、そして旧笹子峠を目指すルートと、富士急行線や国道139号に沿って富士吉田を目指すルートのふたつ。後者には、意味はなかった。道路状況で進むことができなければ、ここ大月で終わるものなんだからとおまけのように用意しただけで、テーマもコンセプトもない。僕が用意したルートながら、今日一緒に走ってくれているUさんMさんには、そんなことは説明せずともわかっているようだった。
「まあ笹子峠は交通量もおそらくないに等しいでしょうし、標高もこれまでとは別格に高いから、行く行かないは笹子でもう一度考えましょうか」
「そうですね、時間のこともありますし」おつけだんごと一緒に頼んだ餃子をつつきつつ僕は言った。「笹子に着いた時点で判断、難しそうなら笹子駅から輪行しましょう」
もう僕らの意識には富士吉田という選択肢はなくなっていた。
(11月24日大月市内定点カメラのようす)
(雪もすっかりなくなった国道20号)
◆
笹子駅前、笹子餅のみどりやの前でMさんが買った笹子餅を三人で食べた。それぞれがみなおみやげに買い、それとは別にもうひと包み、みんなで食べましょうとMさんが買ったもの。くさ味のない草餅と甘くないつぶあんが美味しくって、つい2個いただいてしまった。
「だめですねやっぱり国道20号は。交通量も多い。大型車がほとんどだし」
とUさんが言うと、
「都内で慣れているつもりであっても大型車は怖いですね」
とMさんが言った。
「大型車もいろいろだよねえ。大きく膨らんでマージン取って抜かして行ってくれる人もいればすれすれを通り過ぎていく人もいる。あのすれすれで抜けてく人はわざとやってますから」
「そうなんですか!?」
「そうそう、わざとぎりぎりを通って最後幅寄せをしていくんですよ」
「怖っ……」
じっさい大月からここ笹子までのあいだ、国道20号を走るほかなかった。旧甲州街道とは別にバイパスができているところが多いけれど、猿橋から大月を越えて初狩、笹子まで旧甲州街道がそのまま国道20号なのだ。宿場町も国道20号の沿道に残っているけれど、走ることに気をつかっていると景色にも目を配れない。止まるにも、こういうタイプの道では止まろうという気になれなかった。
唯一脇にそれたのが初狩駅周辺。特に旧道のようなものがあるわけじゃなく、国道が鉄道から離れることによって駅と国道とのあいだを埋めるようにいくつか道があっただけだ。それも左側だからそれたようなもの。初狩から笹子にかけて旧街道の短いルートが二箇所ほど別にあったけれど、この交通量から右折でそれる、再び国道に戻るときに右折で合流する必要があるとなるとためらってしまった。それるルートがほんの短い区間だったからなおさらだった。結局、初狩駅周辺以外は国道20号だけでここまで来た。
「坂道走るよりよほど疲れます」
とUさんが苦笑いした。
「さて」と、笹子餅を食べ終えた僕が切り出した。「笹子峠、どうしましょう」
時間は午後1時半過ぎ。この時間から行くとおそらく甲斐大和の駅に午後3時半過ぎから4時くらいに着くんじゃないかと思います、と僕は言った。──もちろん直感。
「それなら、大丈夫」とMさんが言った。今日、いちばん時間を気にしていたのがMさんだった。
「僕はいくらでも大丈夫なので」とUさんが言う。
(笹子駅前)
(笹子餅)
「あと何キロか、また大型車に付き合わなくちゃなりません」
そう僕は言って、国道20号を笹子峠に向かって出発した。
◆
(矢立の杉)
笹子峠へ向かう旧甲州街道はつづら折りの山岳路だが、カーブをいくつも過ぎないうちに道路脇の電柱がなくなった。電柱がないということはイコールそこから先はもう人里さえないということ。途中の矢立の杉くらいまでは電気は来ているだろうと踏んでいたのだけど、国道20号から分かれてかなり早いうちだったから驚いた。
そうなると道はきわめて静かだ。道路は県道212号となっているけれど、周囲に人の暮らしもなければ道にセンターラインもない。舗装されているものの林道のようだ。
「本当に静かだ」とUさんが言葉を漏らし、「いいところだぁ」とMさんがつぶやく。虫もいない鳥も鳴かない。動物も眠っているのだろうか。風もない今日は木々や葉も揺れることがない。無音のなか、片づけられることのない落葉ですっかり狭くなった舗装面を選んで、僕らも静かに上っていった。
峠越えになる笹子隧道まで矢立の杉くらいしか目標になるものがないのでそこを目指すのだけど、この旧街道の山岳路に入ってからずいぶん来ている。こんな奥にあるのか、と思うころやっと矢立の杉の看板があらわれた。
上野原駅前で乗客をバスに案内していたバス会社のオジサンが「杉を見に行くといいよ」と言っていた。バス誘導と列車の到着にちょうど合い間ができ、駅前で自転車を組んでいた僕に「どこまで行くの?」と話しかけてきた。僕は「行けたら笹子峠まで行きたいんです」と答えた。「雪が降ったでしょう、あれで道がどうなのかわからないですが」と言うと、「まあ大丈夫じゃないか、雪は降ったけど今は見かけないよ」と言った。それから杉の話になり、なんつったっけなぁあの杉はと言うので僕は矢立の杉ですよねと言った。そうそう、有名な杉だよ、見に行ってくるといいと言った。
上野原を出発してからおよそ6時間、いよいよその有名な杉へやって来た。「静か」で「いい道」には雪は残っていなかった。本当に幸いだった。
自転車を降りて山道を百メートルほど行く。その杉はロープに守られるように立っていた。大きく、そして太い。途方もない時間、ここに立っている。それがびりびりと伝わってくる。
矢立の杉から峠越えとなる笹子隧道までは2キロ足らずだった。この道路に不釣り合いなほど立派で汚れもない大きな坑口が僕らを迎えた。
来るべきところへ来た、そんな気持ちになりみんな思い思いに散った。それからまた集まってセルフタイマーを使い記念写真を撮る。そしてまた散る。ここまで誰ともすれ違わない、誰にも追い越されることもなかった道は、しばらくのあいだとどまっていても結局誰も現れなかった。まるで道路を全面使って遊ぶように自由に過ごした。荷物にならなければパーコレーターでコーヒーでも淹れ、大福でも食べながら、この道路のまん中で思いきり飲んでみたいと思った。
(旧笹子峠・笹子隧道)
それぞれが思い思いのタイミングでトンネルを越え、反対の甲州市側でも同じように時間をかけて過ごす。大月市側が赤茶色のトンネルポータルであったのに対しこちらのそれはグレー一色。いずれにしても道路やこの交通量に対して立派過ぎるほどの造りだ。
少しのあいだたたずんでいると、身体が震えるのを感じた。
「寒くないですか?」と僕はふたりに言った。
「あきらかに大月市側と気温が違いますね」とUさんが言う。
午後3時半、峠はすっかり山陰に入った。
「着ましょう」と誰からともなく言い、上着を羽織る。僕もウィンドブレーカーを上に着た。
甲斐大和への下り。
僕らは日暮れに追い立てられるように長い坂道を下った。
(甲斐大和駅)
「こんにちは──」
旧甲州街道──県道212号を下り切って甲斐大和の国道20号に出る直前、僕らは今日最初で最後のサイクリスト三人とすれ違った。あいさつを交わした彼らが向かうのは笹子峠なのか? もうすでに午後4時をまわっているけれど。
彼らはあれから峠越えをしたのだろうか……。
笹子峠の下りはシューズカバーがないと足先がかじかんでしまうほどだった。もう一枚何か服を持ってくるべきだったかもしれない。駅に着いても寒さが抜けず、自転車をパックしても震え続けていた僕は缶のコーンスープを自販機で買ってひと息に飲み、さらに国道に出たところにあるセブンイレブンヘ出向いてホットコーヒーを買った。それでも寒さから逃れなれない。
上り中央本線が入ってきて、暖房の効いたその座席に三人で座ると気分的にも落ち着けた。身体は少しずつ温かみを取り戻す。午後4時半、列車の窓の外はもう真っ暗だった。半自動で扉の閉ざされた車両は発車待ちで音もなく止まっている。寒さから徐々に解放されるとほっとして僕は座席に少し寝そべるように座りなおした。そして今日一日の旅を思い返す。楽しかったな──。ふたりはどうだろうか。楽しんでもらえただろうか。また行きたいって言ってもらえるといいな、僕はそんなことを考えていた。Mさんがセブンイレブンで三人分買ってきた肉まんをUさんと僕に手渡した。列車ががくんと動く。僕はありがとう、また行きましょうねと言って受け取った。
(→ご一緒いただいたUさんのブログ:北斎の富士と笹子隧道(上野原駅~笹子~甲斐大和駅))
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